当時の神戸本社
(兵庫県神戸市中央区相生町4丁目5-5)
神戸本社

震災当時の様子について
奥谷忠彦常務(当時大学3年生)(震災当時21歳)インタビュー~

震災直後の心境を教えてください。

凄まじい騒音で目を覚ましたことを今でも覚えています。
当時流行していたノストラダムスの大予言の「地球滅亡」という予言が当たったのだと勘違いしました

直後は現実味の無いフィクションのような光景を受け止められず、悲しみの感情が芽生える余裕もありま せんでしたが、安否確認で近所を回っていた際、家屋が倒壊し途方に暮れる友人を見て一気に現実に引き 戻されましたね。
それからはずっと悲しみの渦に囚われた様な日々が続きました。

奥谷忠彦常務

当時、当社はどういった状況でしたか?

当時私は大学生で、当社でアルバイトをしていました。
震災初日はとにかく会社が心配でしたので、実家から当時の社長(現在の6代目会長)と会社に向け車を走らせました。
本来なら30分ほどの距離なのですが、大渋滞で一向に進まず堪らず実家に引き返しましたね。
翌日18日、徒歩で3~4時間かけてようやく会社にたどり着きました。
当時神戸本社には作業場と倉庫があり、そこに金網とエキスパンドメタルを在庫していたのですが、ほとんどの金網が倒れていましたので一週間かけて元に戻 しました。
神戸本社周辺はまだ被害が小さい方でしたが、一日作業を終えてみると、灰色だった作業着が黒色になるくらい埃と煤が漂っている事に気がつきました。
その後しばらくは被害のより少なかった姫路営業所と明石工場が代わりに業務を行い、神戸本社が仕事に専念できたのは震災から10日くらい過ぎていたと思い ます。

当時どんなことに困りましたか?

とにかく水と食料。これに尽きます。
阪神淡路大震災が起きるまで、地震は関東で起こるものだという認識が強く、水や食料を備蓄する発想がありませんでした。
私は幸い実家が無事で、実家にあった食料を食べることができましたが、その後食料を入手できず、しばらくの間、遠くの方々の救援物資でしのいでいました。
当時は1日1食でおにぎりなら1~2個、パンなら1枚でしたので、カップラーメン・おにぎり、この組み合わせが本当に御馳走でした。

南海トラフ巨大地震に向けどのような対策を講じるべきだとお考えですか?

先程申し上げた通り、水と食料の不足には困らされましたので、これらの備蓄は最低限必要だと考えます。
また季節柄気温が低く、風も強かったため、暖をとれる防寒具、厚手の靴下やカセットコンロ・ボンベがあれば寒さもしのげると思います。

各部署にて防災委員会を設置していますが、社員の生命と会社の資産を守るために、 全社を挙げて防災・減災の意識を向上させる必要が有ります。
2022年~2023年 神戸本社の主な取組みとして、

  1. 南海トラフ地震に備えて、本社事務所を1階から2階へ移動
  2. 本社ビル(消火器)(煙探知機)(熱探知機)の設置
  3. 神戸市灘区に有る『人と未来防災センター』見学会
  4. 神戸市消防局 市民防災総合センター 様による弊社の『防災マニュアル』の助言と、『防災・防火研修会』の開催
  5. 水消火器による、防火訓練
  6. 神戸市民防災総合センターでの体験研修

等を行いました。

これからも防災活動を継続し、更なる意識と知識を向上させ、 避難訓練によって、いざという時に備えていきます。

当時の神戸本社の様子